私が相撲に興味を持つようになったのは、あるモンゴルの遊牧民少年との出会いがきっかけでした。
2016年夏、「わんぱく相撲全国大会」の実行委員会の方と縁ができて大会を見学させてもらえることになりました。都道府県大会を勝ち抜いてきた日本の小学4〜6年生の選手たちに加え、モンゴルからも各学年1人ずつ代表選手が来るため、モンゴルに関わりのある私を招待してくださったのです。舞台は両国国技館です。
大会本番前日の朝、開会式リハーサルが行なわれていた国技館に足を踏み入れると、わんぱく横綱の座を狙う子ども力士たちの熱気と応援する親御さんたちの気迫で満ちていました。
華奢な子、おとな顔負けの巨体をもつ子、小学生と言っても色々です。空きスペースで四股を踏んだり、雄たけびをあげたり、子ども力士たちの大会に賭ける思いが伝わってきました。
しかしリハーサルが始まった後も、肝心のモンゴルチームの姿が見当たりません。大会実行委員の方に尋ねると「まだ来ていないんですよ。連絡もとれなくて……」とため息。さらに「通訳をしてくれる予定だったモンゴルの方が急に来られなくなったみたいで、代わりにやってくれませんか?」と急遽頼まれ、大会中、私はモンゴルチームに同行することになりました。
しばらくして、モンゴルチームとようやく電話がつながりました。「今どこにいるんですか?」と聞くと、「スカイツリーの展望台です」という返事(笑)。ショッピングの紙袋を手にしたモンゴルチームが国技館へ到着したとき、リハーサルはもう終わっていました。ちなみにスカイツリーに行きたかったのは引率の大人で、子ども力士たちは何にもわからず一緒に連れて行かれただけです(笑)。
その時に初めて、モンゴルでの予選大会を勝ち抜いてきた3人の選手と出会いました。小さくて色の白い4年生のビルグーネー君、小さくて色の黒い5年生のソミヤバザル君、すらっと背が高く色が白い6年生のソソルフー君。3人とも、首都ウランバートルから約640キロメートル離れたバヤンホンゴル県の村にあるモンゴル総合生協小学校の生徒だそうです。大分県の労働者総合生協が20周年記念事業で寄付をして建てたこの小学校は、2006年に開校。大分県との交流活動も毎年行っています。
監督として一緒に来日したガンホヤグ先生は、同小学校で体育を指導する男性教師(当時37歳)。日本の援助でできた学校なので、何か日本らしいことを子どもたちに教えたいと思って教室内にビニールで簡易土俵を作り、相撲クラブを始めて大相撲のテレビを見ながら教えてきたそうです。
モンゴル相撲に親しんでいたこともあり、子どもたちはもともと日本の相撲に関心がありました。4人の横綱(朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜)への憧れも強く、ガンホヤグ先生の相撲クラブには、放課後になると男女関係なく生徒たちが集まってきました。
わんぱく相撲のリハーサル終了後は自由時間があり、モンゴルチームと一緒に観光で渋谷に出かけました。子どもたちはモンゴルにないスターバックスからスクランブル交差点を見下ろして行き交う人の多さに固まったり、100円ショップでお母さんへのおみやげのネックレス選びにいつまでも時間をかけて悩んだり、飛び乗るタイミングがわからないエスカレーターに緊張したり。素朴で明るい彼らと一緒にすごして、私はすっかり魅了されてしまいました。
中でも6年生のソソルフー君には独特の引力がありました。何が起きても動じることなく肝が座って飄々としていいて、笑うととても大らか。遊牧民の家で生まれ育ったそうで、「モンゴル人は馬上で育つ」という有名な言葉があるように、大草原を駆けながら大きくなったのだと思います。
翌日の大会本番では、先生も子どもたちも戦士の顔つきに変わっていました。大会はトーナメント形式で進み、ソソルフー君が銅メダルを獲得。途中敗退したビルグーネー君とソミヤバザル君は「初めて外国人と相撲をして怖かった。悔しい」と泣いていました。
そして今、ソソルフー君は相撲名門校の鳥取市立西中学校に留学し、毎日厳しい練習に明け暮れています。彼は5年生のときに横綱が主催する白鵬杯で優勝し、その実績が認められてスカウトされました。鳥取の生活も2年が過ぎ、大嫌いだった野菜も少しは食べられるようになって、日本語もだいぶ覚えたようです。身体も以前より大きくなり、今年2月の白鵬杯では中学生の部でベスト16になりました。
「遊牧民のお母さんがいつも働いているから、楽をさせてあげたい」と、13歳で留学してきた当時に話していたソソルフー君。怪我などのアクシデントがなければ、大相撲で大活躍する彼の姿を見られる日が将来きっと来るはずです。
そしてわんぱく相撲大会から5年後、2021年10月10日のソソルフー君のニュースです。