共同通信連載最終回のテーマは「モンゴル抑留」です。いま天皇陛下と皇后陛下がモンゴルを訪問されていらっしゃいます。その重要な目的の一つはモンゴル抑留で命を落とされた日本の方々の慰霊とのことで、個人的に涙が出そうなほど嬉しいです。
東京新聞 2025年7月3日夕刊掲載(共同通信配信)
1945年夏、終戦。大陸にいた若い兵士たちは、ついに故郷へ帰ることができると、どれほど心震わせたことだろう。しかし突然、60万人もの日本軍兵士が、極寒の地へ連行された。「シベリア抑留」だ。そのうち1万4千人はモンゴルへ送られた。建設などの強制労働に、2年間にわたり、従事させられたのである。
「モンゴル抑留」があったことについて、日本でもモンゴルでも、あまり知られていない。この歴史的事実を多くの人に伝えたいと、抑留に関する展示物をゲルに収め、ちいさな博物館を設立したモンゴル人男性がいる。ウルジートグトフさんだ。

その名も「さくら博物館」。首都ウランバートル中心部のスフバートル広場から5キロメートルほど離れた、ノゴーンノール公園内にある。ゲルの中に入ると、日本人抑留者が建てたアパートのれんがや当時の写真などが並ぶ。二十歳前後だった若者たちの、異国での苦悩の跡が、展示物からにじみ出る。

実はノゴーンノール公園を造ったのも、ウルジートグトフさんだ。公園には切り立った岩場があり、以前はごみの溜まり場になっていた。それを見た彼は、子どもが安心して遊べる場所にしたいと、ゴミ袋300個分を地道に処分し、くぼみを池にして、児童公園をオープンした。
そしてある日、この岩場の歴史を尋ねられたのをきっかけに、自ら調べ始めた。すると、かつて日本人捕虜がここで石を切り出し、遠くまで運んでいたことがわかった。スフバートル広場の石畳の建設にも、この石が使用された。
「私が子どものとき、モンゴルは社会主義時代で日本は敵国だと教わった。しかし抑留者の歴史を知るにつれ、日本人がモンゴルの発展に大きく寄与していたことがわかった。このことを、他のモンゴル人とも共有したいと思うようになった」
知識を深めるため、日本語で書かれた関連書籍を、1ページずつスキャンして、グーグル自動翻訳にかけて読む。千ページを超える大作は、3カ月かけて読破した。

2024年秋には、福岡と北海道を訪れ、モンゴル抑留を経験した3人の日本人と面会した。彼らは帰国後、どのような人生を送ったのか、話を聞くためだった。このとき録画した映像は将来、この博物館で公開したいという。
モンゴルに抑留された日本人のうち、1700人以上が、寒さや飢えなどで亡くなり、帰国が叶わなかった。若き青年たちが、オペラ劇場や政府庁舎の建設に貢献し、ウランバートルの街づくりの一端を担っていたことを、今を生きるモンゴルの若者に継承したい。ウルジートグトフさんの奮闘はつづく。
