ノモンハンの亡霊

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 8月、私はモンゴルを旅した。首都ウランバートルを車で出発後、1日あたり300〜400キロをひたすら東へ向かって走り続ける。舗装されていないオフロードを走るときは車が上下に激しくゆれ、まるでロデオの馬に乗っているようだった。

 モンゴルは場所によって地形が異なる。今回旅した東部は山がなく、ひたすら平らな大草原が地平線まで続く。今年は雨がたっぷり降ったので、あたり一帯がみずみずしい緑色に染まり、薄紫色や黄色の花も咲き乱れていた。静かな草原に、天から太陽の光が差す。ただそれだけで、胸がいっぱいになるほど美しい景色だった。

 ウランバートルを出発してから4日目、モンゴル東部の国境付近に位置するハルハ河に到着。1939年、ノモンハン事件が起きた現場である。

 当時、大日本帝国の傀儡だった満州国とソビエト連邦の傀儡だったモンゴル人民共和国は、ハルハ河付近の国境線をめぐって小競り合いを繰り返していた。攻撃は次第に規模を拡大し、日本とソ連の軍事衝突へとつながっていく。日本は頑強に挑み続けたものの、結果的には敗北に終わり、約2万人の兵士が死傷するという大損害をこうむった。しかし日本軍はこの事実を封印し、教訓を充分に活かすことなく、ソ連軍に攻め入る北進論から南進論へと方針を転換した。

 ノモンハン事件のことを、モンゴル人はハルハ河戦争と呼ぶ。「事件」と「戦争」ではニュアンスが大違いだ。

 歴史マニアだという40代のモンゴル人男性から以前言われた言葉が、私の心にずっとひっかかっている。 「もしモンゴルが親日国だと思っているのなら、それはちょっと違う。一部のモンゴル人は、ハルハ河戦争の恨みをいまも忘れていない」

 別の、映画監督をしている60代のモンゴル人男性はこう語っていた。

「私はハルハ河戦争の映画を撮るのが夢だ。激しい戦いの末、最後に生き残った日本兵とモンゴル兵が草原の上で触れあう物語をつくりたい」

 この2人の語りぶりが熱っぽく、モンゴル人にとってハルハ河戦争がどんなに大きな意味をもった出来事であるかを実感させられた。いっぽう日本人である私は、歴史の授業でさらっと学んだだけ。同じように多くの日本人が、この戦いについて詳しく知らないのではないだろうか。

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⬇️全文(残り約1000文字)は月刊望星2019年10月号に掲載されています。

東海教育研究所 http://www.tokaiedu.co.jp/bosei/koudoku.html